山崎の戦いを徹底深堀!

山崎の戦いまでの出来事を簡単解説

1582年6月2日、明智光秀は突如、謀反を起こし、主君の織田信長を本能寺で討ちました。この報は、その頃中国山地で毛利軍と戦っていた羽柴秀吉に伝えられます。秀吉は、急いで毛利軍と和議を結び、京都に引き返しました。

本能寺の変の頃の織田軍諸将の所在地

布陣

この報を受け、光秀は西国から京へ行くときの要衝、山崎の地で秀吉を迎え撃とうとします。その数約1万5000。秀吉軍は途中、四国出兵の準備をしていた丹羽長秀織田信孝も加わり、4万の大軍となって光秀が待つ山崎にたどり着き、両軍はにらみ合います。

山崎の戦い布陣図

参戦武将と兵力

羽柴軍

総兵力・・・・・・・・・40000

秀吉本隊・・・・・・・・20000

丹羽長秀・・・・・・・・3000

織田信孝・・・・・・・・4000

中川清秀・・・・・・・・2500

池田恒興・加藤光泰・・・5000

高山右近・木村重茲・・・2000

明智

総兵力・・・・・・・・・16000

光秀本隊・・・・・・・・5000

斎藤利三・柴田勝定・・・2000

明智茂朝・・・・・・・・3000

並河易家・松田太郎左衛門2000

伊勢貞興・・・・・・・・2000

津田正時・・・・・・・・2000

 

 

(後日更新)

明智光秀の三日天下の間の出来事を深堀!

明智光秀の生涯を簡単に解説

明智光秀は言わずとしれた、史上一の裏切り者です。織田信長の家来であったにもかかわらず、寝込みを襲い本能寺にて、自害に追い込み天下を取りました。しかし、同じ信長の家来、羽柴秀吉中国大返しで、事態は急変。山崎の戦いで秀吉に敗れ、敗走中に落ち武者狩りにあい、命を落としました。

三日天下とは

明智光秀織田信長を倒し、天下を取ったところから、秀吉に山崎の戦いに敗れて天下を秀吉に奪われるまでの天下を握っていた期間がとても短かったことから、そう言われます。三日天下と言われますが、光秀が天下を取っていたのは実際には11日です。

三日天下の間の出来事を日毎に深堀!

光秀は織田信長を倒したあと、なくなるまで、何をしていたのか。歴史ドラマや漫画で、削られることが多い一時にスポットを当てていきます。

6月2日

本能寺の変勃発。織田信長とその嫡男、織田信忠を死に追いやりました。京都を押さえ、信長と信忠の残党確保を行います。

6月3日

信長本拠地の安土城を抑えるために、光秀は近江に向かいました。光秀は近江の勢田城主、山岡景隆に味方になるよう、勧誘を行いますが、拒絶されます。景隆は、安土へ向かう光秀の進軍路に当たる、瀬田川にかかる瀬田橋を落としました。そのため、光秀は進軍が大幅に遅れてしまいます。光秀は、仮橋を設置することにしました。

 

この頃、山崎の戦いで光秀と戦うことになる羽柴秀吉は、中国地方の高松城で毛利軍と交戦中でしたが、信長がなくなったことを知ると、すぐに和議を結びました。

本能寺の変から安土城入城まで

6月4日

光秀は坂本城に入りました。この日までに、光秀は近江全域を支配下に置きます。

6月5日

瀬田川に仮橋が架かりました。光秀軍は仮橋を渡り、安土城に入ります。そこで、信長が集めた金銀財宝を家来に分け与え、士気を高めました。

6月6日

この日は何も起こりませんでした。安土城で、光秀らは久々に、休息を取ったと思われます。この間も光秀は畿内筒井順慶細川幽斎ら大名に味方になるよう、要請しました。

この頃、羽柴秀吉高松城からの撤退を開始しました。

6月7日

朝廷の誠仁親王は、吉田兼和安土城に派遣し、京都の治安維持を任せました。これは、本能寺の変が起こり、京都が混乱していたためです。しかし、兼和は光秀のことを謀反人と書いています。ともあれ、これで光秀は、正式に京の支配を認められました。

一方の秀吉は、この日、姫路城に到着しました。

秀吉の中国大返し

6月8日

光秀は、宮中に参内するために安土へ向かいました。京の治安維持を任されたことに対して、礼を言うためだと思われます。

6月9日

光秀は宮中に参内しました。そこで、銀を献上しました。

・朝廷・・・・・銀500枚

京都五山・・・銀100枚

大徳寺・・・・銀100枚

吉田兼和・・・銀50枚

6月10日

この日に光秀は、秀吉接近の報告を受けました。決戦地は淀城周辺だと睨んだ光秀は付近の淀城、勝竜寺城を修築。秀吉を迎え撃つ準備を整えます。

6月11日

秀吉は尼崎に入りました。

6月12日

両者は、山崎の円明寺川を挟んで対峙します。光秀軍の兵力は1万3000。対する秀吉は3万ほど。局地的な戦闘はありましたが、大きな戦いをすることなく、その日は終わりました。

山崎の戦い布陣図

6月13日

午後4時頃、事態が動きます。光秀の家臣、伊勢貞興が、秀吉方の中川清秀を攻撃。そこから激しい戦いが始まります。その一時間後、秀吉方の加藤恒興らが円明寺川を渡って、明智軍に奇襲。これが致命傷となり、光秀は敗北。逃亡中に、落ち武者狩りにあい、落命しました。

まとめ

ここまで、光秀が本能寺の変織田信長を倒してから、山崎の戦いで敗れ、命を落とすまでの出来事を見つめてみました。こうして見ると、光秀が天下を取った期間は非常に短いことがわかります。これでは、中国大返しで帰ってきた秀吉に勝つことは厳しかったですね。

 

 

 

石田三成の子孫は根絶やしになったのか?

はじめに

石田三成は多くの人に知られた戦国武将です。豊臣秀吉に仕え、五奉行の筆頭格にまで出世を果たした三成ですが、その後の関ヶ原の戦いでは徳川家康に敗北。逃走しましたが捕まり、処刑されました。

処刑された者の一家の多くは、殺害されたり、出家したりするものですが、三成の子供たちはどのような人生を歩んでいったのでしょう?

三成の家族

そもそも、三成の家族はあまり知られてはいません。知られていないだけで、三成には皎月院(こうげついん)という妻との間に知られているだけで3男3女がいます。三成は生涯に渡って側室を持ちませんでした。そうしたエピソードからも、三成の真っ直ぐな性格が伺えます。

今回は、子に加えて、三成の親と兄弟についても紹介します。

父:石田正継

母:岩田家の娘

兄:石田弥治郎

 :石田正澄

妻:皎月院

長男:石田重家

次男:石田重成

三男:清幽

長女:名前不明

次女:小石殿

三女:辰姫

三成の子孫の行方は?

 

ここからは、本題に入りたいと思います。ズバリ、石田三成の子孫は現在まで続いてきたのか。三成の全ての子の子孫について、紹介します。

石田重家の子孫

三成の長男の石田重家。彼は関ヶ原の戦い前、家康から可愛がられていたと言います。そのため、命は助けられて出家。104歳の天寿を全うしました。

重家には一人の子供がいます。石田直重です。直重は松平忠直に仕えます。越後の妙高という地の新田開発を命じられ、以後はそこに住みました。重家の子孫によると、その後は庄屋となり、現在まで男系で繋いでいるそうです。

石田重成の子孫

関ヶ原の戦いで、父の三成が破れたという知らせが入ったとき、重成は大阪城にありました。津軽信建の助けで、重成は大阪を脱出し、津軽家の本拠地がある陸奥に逃れました。その地で重成は杉山と姓を変えて暮らします。そして、1641年に死去します。

重成の長男、吉成は弘前藩主、津軽信枚の娘と結婚し、家老職に付きました。その子孫は代々、弘前藩の家老や奉行職として仕え、その血筋は現在まで続いています。

清幽の子孫

佐吉という名でした。関ヶ原の戦いの後の佐和山城の戦いで、石田家家臣、津田清幽が徳川家康に迫り、除名を承諾させました。佐吉は出家するよう命じられます。法名は命を助けてくれた清幽への感謝から清幽としました。

若くして仏門に入ったため、子はいないと考えられます。

長女の子孫

三成の長女は石田三成の家臣、山田隼人正と結婚しました。隼人正の叔母は家康の側室、茶阿局だったため、隼人正は徳川家一門の松平忠輝に仕えます。忠輝改易後は津軽藩士となりました。

子の有無は分かっていませんが、おそらく、後世まで血筋が伝えられていると考えられます。

小石殿の子孫

三成の次女、小石殿は会津の蒲生家の家臣、岡重政に使えました。しかし、重政は1613年に起きた御家騒動により、切腹。小石殿は会津を離れ、若狭国の小浜にて死去したと伝わります。

小石殿の子には、吉右衛門がいました。吉右衛門の娘は徳川家光の側室、お振の方となり、千代姫を産みました。千代姫はその後、尾張徳川家に輿入れし、その血脈は代々尾張藩主に受け継がれ、ました。また、尾張藩四台藩主、徳川吉通の娘は公家の九条幸教と結婚し、その子孫には、昭和天皇もいます。つまり、三成の血筋は、現在の皇室にも伝わっています。

辰姫の子孫

弘前藩二代藩主、津軽信枚の正室になりました。後に、徳川家康の幼女が輿入れしたため、側室となりましたが、辰姫の子の津軽信義が第三代藩主になり、三成の血筋を伝えています。

まとめ

今まで述べてきたとおり、三成の子孫は現在まで続いています。子孫が続いているだけではなく、三成の子孫には皇室の方々がいることは非常に驚きですね!

今回は最後までお読みいただきありがとうございました。これから、歴史に関する記事をドシドシお送りしていきます。お楽しみに!

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三成とその子孫に関する書籍・映画


 


 


 


 

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