明智光秀の三日天下の間の出来事を深堀!

明智光秀の生涯を簡単に解説

明智光秀は言わずとしれた、史上一の裏切り者です。織田信長の家来であったにもかかわらず、寝込みを襲い本能寺にて、自害に追い込み天下を取りました。しかし、同じ信長の家来、羽柴秀吉中国大返しで、事態は急変。山崎の戦いで秀吉に敗れ、敗走中に落ち武者狩りにあい、命を落としました。

三日天下とは

明智光秀織田信長を倒し、天下を取ったところから、秀吉に山崎の戦いに敗れて天下を秀吉に奪われるまでの天下を握っていた期間がとても短かったことから、そう言われます。三日天下と言われますが、光秀が天下を取っていたのは実際には11日です。

三日天下の間の出来事を日毎に深堀!

光秀は織田信長を倒したあと、なくなるまで、何をしていたのか。歴史ドラマや漫画で、削られることが多い一時にスポットを当てていきます。

6月2日

本能寺の変勃発。織田信長とその嫡男、織田信忠を死に追いやりました。京都を押さえ、信長と信忠の残党確保を行います。

6月3日

信長本拠地の安土城を抑えるために、光秀は近江に向かいました。光秀は近江の勢田城主、山岡景隆に味方になるよう、勧誘を行いますが、拒絶されます。景隆は、安土へ向かう光秀の進軍路に当たる、瀬田川にかかる瀬田橋を落としました。そのため、光秀は進軍が大幅に遅れてしまいます。光秀は、仮橋を設置することにしました。

 

この頃、山崎の戦いで光秀と戦うことになる羽柴秀吉は、中国地方の高松城で毛利軍と交戦中でしたが、信長がなくなったことを知ると、すぐに和議を結びました。

本能寺の変から安土城入城まで

6月4日

光秀は坂本城に入りました。この日までに、光秀は近江全域を支配下に置きます。

6月5日

瀬田川に仮橋が架かりました。光秀軍は仮橋を渡り、安土城に入ります。そこで、信長が集めた金銀財宝を家来に分け与え、士気を高めました。

6月6日

この日は何も起こりませんでした。安土城で、光秀らは久々に、休息を取ったと思われます。この間も光秀は畿内筒井順慶細川幽斎ら大名に味方になるよう、要請しました。

この頃、羽柴秀吉高松城からの撤退を開始しました。

6月7日

朝廷の誠仁親王は、吉田兼和安土城に派遣し、京都の治安維持を任せました。これは、本能寺の変が起こり、京都が混乱していたためです。しかし、兼和は光秀のことを謀反人と書いています。ともあれ、これで光秀は、正式に京の支配を認められました。

一方の秀吉は、この日、姫路城に到着しました。

秀吉の中国大返し

6月8日

光秀は、宮中に参内するために安土へ向かいました。京の治安維持を任されたことに対して、礼を言うためだと思われます。

6月9日

光秀は宮中に参内しました。そこで、銀を献上しました。

・朝廷・・・・・銀500枚

京都五山・・・銀100枚

大徳寺・・・・銀100枚

吉田兼和・・・銀50枚

6月10日

この日に光秀は、秀吉接近の報告を受けました。決戦地は淀城周辺だと睨んだ光秀は付近の淀城、勝竜寺城を修築。秀吉を迎え撃つ準備を整えます。

6月11日

秀吉は尼崎に入りました。

6月12日

両者は、山崎の円明寺川を挟んで対峙します。光秀軍の兵力は1万3000。対する秀吉は3万ほど。局地的な戦闘はありましたが、大きな戦いをすることなく、その日は終わりました。

山崎の戦い布陣図

6月13日

午後4時頃、事態が動きます。光秀の家臣、伊勢貞興が、秀吉方の中川清秀を攻撃。そこから激しい戦いが始まります。その一時間後、秀吉方の加藤恒興らが円明寺川を渡って、明智軍に奇襲。これが致命傷となり、光秀は敗北。逃亡中に、落ち武者狩りにあい、落命しました。

まとめ

ここまで、光秀が本能寺の変織田信長を倒してから、山崎の戦いで敗れ、命を落とすまでの出来事を見つめてみました。こうして見ると、光秀が天下を取った期間は非常に短いことがわかります。これでは、中国大返しで帰ってきた秀吉に勝つことは厳しかったですね。