石田三成の子孫は根絶やしになったのか?

はじめに

石田三成は多くの人に知られた戦国武将です。豊臣秀吉に仕え、五奉行の筆頭格にまで出世を果たした三成ですが、その後の関ヶ原の戦いでは徳川家康に敗北。逃走しましたが捕まり、処刑されました。

処刑された者の一家の多くは、殺害されたり、出家したりするものですが、三成の子供たちはどのような人生を歩んでいったのでしょう?

三成の家族

そもそも、三成の家族はあまり知られてはいません。知られていないだけで、三成には皎月院(こうげついん)という妻との間に知られているだけで3男3女がいます。三成は生涯に渡って側室を持ちませんでした。そうしたエピソードからも、三成の真っ直ぐな性格が伺えます。

今回は、子に加えて、三成の親と兄弟についても紹介します。

父:石田正継

母:岩田家の娘

兄:石田弥治郎

 :石田正澄

妻:皎月院

長男:石田重家

次男:石田重成

三男:清幽

長女:名前不明

次女:小石殿

三女:辰姫

三成の子孫の行方は?

 

ここからは、本題に入りたいと思います。ズバリ、石田三成の子孫は現在まで続いてきたのか。三成の全ての子の子孫について、紹介します。

石田重家の子孫

三成の長男の石田重家。彼は関ヶ原の戦い前、家康から可愛がられていたと言います。そのため、命は助けられて出家。104歳の天寿を全うしました。

重家には一人の子供がいます。石田直重です。直重は松平忠直に仕えます。越後の妙高という地の新田開発を命じられ、以後はそこに住みました。重家の子孫によると、その後は庄屋となり、現在まで男系で繋いでいるそうです。

石田重成の子孫

関ヶ原の戦いで、父の三成が破れたという知らせが入ったとき、重成は大阪城にありました。津軽信建の助けで、重成は大阪を脱出し、津軽家の本拠地がある陸奥に逃れました。その地で重成は杉山と姓を変えて暮らします。そして、1641年に死去します。

重成の長男、吉成は弘前藩主、津軽信枚の娘と結婚し、家老職に付きました。その子孫は代々、弘前藩の家老や奉行職として仕え、その血筋は現在まで続いています。

清幽の子孫

佐吉という名でした。関ヶ原の戦いの後の佐和山城の戦いで、石田家家臣、津田清幽が徳川家康に迫り、除名を承諾させました。佐吉は出家するよう命じられます。法名は命を助けてくれた清幽への感謝から清幽としました。

若くして仏門に入ったため、子はいないと考えられます。

長女の子孫

三成の長女は石田三成の家臣、山田隼人正と結婚しました。隼人正の叔母は家康の側室、茶阿局だったため、隼人正は徳川家一門の松平忠輝に仕えます。忠輝改易後は津軽藩士となりました。

子の有無は分かっていませんが、おそらく、後世まで血筋が伝えられていると考えられます。

小石殿の子孫

三成の次女、小石殿は会津の蒲生家の家臣、岡重政に使えました。しかし、重政は1613年に起きた御家騒動により、切腹。小石殿は会津を離れ、若狭国の小浜にて死去したと伝わります。

小石殿の子には、吉右衛門がいました。吉右衛門の娘は徳川家光の側室、お振の方となり、千代姫を産みました。千代姫はその後、尾張徳川家に輿入れし、その血脈は代々尾張藩主に受け継がれ、ました。また、尾張藩四台藩主、徳川吉通の娘は公家の九条幸教と結婚し、その子孫には、昭和天皇もいます。つまり、三成の血筋は、現在の皇室にも伝わっています。

辰姫の子孫

弘前藩二代藩主、津軽信枚の正室になりました。後に、徳川家康の幼女が輿入れしたため、側室となりましたが、辰姫の子の津軽信義が第三代藩主になり、三成の血筋を伝えています。

まとめ

今まで述べてきたとおり、三成の子孫は現在まで続いています。子孫が続いているだけではなく、三成の子孫には皇室の方々がいることは非常に驚きですね!

今回は最後までお読みいただきありがとうございました。これから、歴史に関する記事をドシドシお送りしていきます。お楽しみに!

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